廊下で腰砕けになった栄太郎。呆然と見つめる直希、あおい、生田。
小山の部屋から顔を出したつぐみも、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。「……」
開け放たれた扉から、文江がゆっくりと姿を現す。そして栄太郎を見下ろすと、廊下を揺るがす大声で怒鳴った。
「出ていけえええええっ!」
「ふ……文江さん?」
いつも穏やかで優しい、そう思っていた文江のあり得ない姿に、あおいも衝撃を受けていた。
「落ち着け、落ち着けって。な、何が気に入らなかったんだ? わしが山下さんと、その……話をしてたのが気に入らなかったのか?」
「この……唐変木っ!」
栄太郎から枕を奪い取り、もう一度投げつけた。
「そんなことぐらいで怒るんだったら、あんたはとっくの昔に死んでるだろ!」
「だ……だろうな……」
「この街の女……何人泣かせたと思ってるんだ、この色情狂!」
「お、おいおい、そんなこと、今ここで言わんでも」
「……でもあんたは、いつも私のところに帰ってくる……なんだかんだ言っても、最後にあんたが戻ってくるのは私のところだった。だから私も、そんなあんたを受け入れてた……今更そんな色目を使ったぐらいで、どうこう思ったりしないよ!」
「じゃ、じゃあ、何を怒ってるんだ、ばあさん」
「私はあんたのばあさんじゃない!」
「え……」
「私はあんたのばあさんじゃない! 妻だろ! 毎日毎日ばあさんばあさん、私がこの何十年、どんな気持ちでその言葉を聞いてきたと思ってるんだ!」
「お、お前だってわしのこと、じいさんって呼ぶじゃないか」
「あんたに合わせてるんだよ! 直希が物心ついた時から、あんたは私のこ
「じいちゃん、いつまで落ち込んでるんだよ」「あ、ああ……すまんな、直希」 直希の部屋に泊まることになった栄太郎は、直希と二人、テーブルを囲んでビールを飲んでいた。「わしは……どうしたらいいんだろうな」「いやいや、俺に聞かれても困るよ。と言うか、どうするかは決まってるだろ。明日もう一度、ばあちゃんに謝って」「謝ってもなぁ……一晩ぐらいじゃ許してくれそうにない顔だったろ」「流石、夫婦歴50年ならではの意見だよな。ばあちゃんの怒りのゲージ、じいちゃんには見えてるんだ」「……あんなに怒ったばあさん、あれ以来だな」「街をまるごと巻き込んだ、伝説の大喧嘩」「はああっ……」 大きくため息をつくと、栄太郎はテーブルに顔を埋めた。「まあでも、なんだかんだで50年連れ添った二人なんだ。確かに今は熱くなってるけど、大丈夫だって」「でもな、あれだけ外面を気にするばあさんが……人前では完璧に猫をかぶってるばあさんが、このあおい荘であれだけぶち切れたんだぞ」「じいちゃんが踏んだ地雷の数だけ、ばあちゃんの仮面がはがれていったからね」「直希お前……ちょっと楽しんでるだろ」「うん、実は。ちょっとだけね」「こいつ」「ははっ。と言うか、久しぶりに元気なばあちゃんを見れて、嬉しかったかな。何だかんだでばあちゃん、俺と住むようになってから自分を抑えてたし」「……」「俺がじいちゃんばあちゃんの家に転がり込んで、二人の生活を変えてしまった。本当ならじいちゃんだって、もっと好き勝手にしたかったと思う……女遊びとかギャンブルとか」「おいおい、間違ってもばあさんの前でそんなこと、言わんでくれよ」「言わないよ
廊下で腰砕けになった栄太郎。呆然と見つめる直希、あおい、生田。 小山の部屋から顔を出したつぐみも、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。「……」 開け放たれた扉から、文江がゆっくりと姿を現す。そして栄太郎を見下ろすと、廊下を揺るがす大声で怒鳴った。「出ていけえええええっ!」「ふ……文江さん?」 いつも穏やかで優しい、そう思っていた文江のあり得ない姿に、あおいも衝撃を受けていた。「落ち着け、落ち着けって。な、何が気に入らなかったんだ? わしが山下さんと、その……話をしてたのが気に入らなかったのか?」「この……唐変木っ!」 栄太郎から枕を奪い取り、もう一度投げつけた。「そんなことぐらいで怒るんだったら、あんたはとっくの昔に死んでるだろ!」「だ……だろうな……」「この街の女……何人泣かせたと思ってるんだ、この色情狂!」「お、おいおい、そんなこと、今ここで言わんでも」「……でもあんたは、いつも私のところに帰ってくる……なんだかんだ言っても、最後にあんたが戻ってくるのは私のところだった。だから私も、そんなあんたを受け入れてた……今更そんな色目を使ったぐらいで、どうこう思ったりしないよ!」「じゃ、じゃあ、何を怒ってるんだ、ばあさん」「私はあんたのばあさんじゃない!」「え……」「私はあんたのばあさんじゃない! 妻だろ! 毎日毎日ばあさんばあさん、私がこの何十年、どんな気持ちでその言葉を聞いてきたと思ってるんだ!」「お、お前だってわしのこと、じいさんって呼ぶじゃないか」「あんたに合わせてるんだよ! 直希が物心ついた時から、あんたは私のこ
朝食後のラジオ体操が終わると、文江は早々に部屋に戻っていった。 残された栄太郎は、庭の喫煙所で頭を抱えている。「あ、あのその……直希さん、みなさん、それじゃ私、いってきます」「あ、ああ菜乃花ちゃん。何だかごめんね、朝からバタバタしちゃって」「いえ、それはいいんですけど、その……文江さん、大丈夫なんでしょうか」「大丈夫大丈夫。じいちゃんばあちゃん、夫婦歴長いからね。こういうことはよくあるんだ。心配ないよ、菜乃花ちゃんが帰ってくる頃には、またいつもの二人に戻ってるから」「そう、ですか……分かりました。じゃあみなさん、いってきます」「うん、いってらっしゃい」「菜乃花、実行委員、頑張ってね」「はい。つぐみさん、ありがとうございます」 そう言って、菜乃花が高校に向かった。「ふう……」 菜乃花の姿が見えなくなると、直希は大きくため息をついた。「何よ直希、菜乃花が行った途端に」「あ、いや……菜乃花ちゃんは今、色んなことに挑戦しようと頑張ってる。だから余計な心配をかけたくないんだよ。俺、うまいこと言えてたかな」「全く……そんなことだろうと思ったわよ。まあ、菜乃花は大丈夫なんじゃないかしら。あの子、直希の言うことに疑いを持ったりしないから」「そっか、よかった……」「にしても、ちょっと大袈裟じゃないかしら。文江おばさんだって、そんなに引きずる人じゃないでしょ」「だといいんだけど……いや、今回はつぐみの勘、外れてると思うぞ」「そうかしら」「ああ。じいちゃんばあちゃん、確かによく喧嘩するんだけど、俺が間に入ったら、結構簡単に仲直りしてくれてたんだ。それでも駄目だったのは、一回だけで」「それってまさか」
「あれ? ばあちゃんは?」 あおいたちが朝食を運んでいる時に、直希が栄太郎に声をかけた。「もう来るだろうよ。何でか知らんが、朝からご機嫌斜めなんだ」「また? じいちゃん、今度は何をしたんだよ」「いやいや、今回は本当に分からんのだよ。起きた時から、何でか知らんがずっとむくれてるんだ」「じいちゃん、知らない内に地雷を踏むところがあるからね。ほら、ちょっと考えてみてよ。でないとフォローも出来ないだろ」「いやいや本当、見当もつかんのだよ。私が何を言っても、『別に』の一点張りで」「ここに来てからは、そんなに喧嘩なんてしてなかったろ? と言うか、そう言えば一度もしてないんじゃないかな」「確かに……と言うことは、かれこれ半年ぐらい喧嘩してなかったのか」「奇跡だね。前の家だと、二日に一回は喧嘩してたのに」「うふふふふっ」 横で聞いていた山下が、口に手を当てて笑った。「ごめんね山下さん。ばあちゃんが来たら、ちょっとフォローしておいてくれませんか」「うふふふっ、いいわよ。でも……いいわね、喧嘩出来る相手がいるってことは」「あ、いや……これはどうも、失礼しました」「いえいえ、そういう意味じゃないですから、気にしないで下さいな。でも新藤さん、直希ちゃんの言う通りですよ。いつも優しくて穏やかな、あの文江さんが怒るなんて余程のことだと思うわ。何があったか知らないけど、ちゃんと謝ってあげないと」「ははっ、恐縮です。ですが山下さん、それを言うなら山下さんこそですよ。何と言うか、その……最近、めっきり綺麗になられた」「まあ新藤さん、お上手ですこと。うふふふふっ」「いやいや、世辞などではなく本当のことです。何やら孫たちと一緒になって、色々難しいことをされているようですが、その頃からですかな。本当、今まで以上にお綺麗になられた」「うふふふふっ、本当、やめてくださ
「あ……あおいちゃん……」「直希さん、動かないでくださいです」 息がかかるほどの距離で、あおいが頬を染めて小さく笑う。「いやその、動かないでと言われても……あおいちゃん? どうしてそんなに近付くのかな」「ふふっ、直希さん、緊張してますです。かわいいです……大丈夫、怖くありませんよ」「あ……その……」「全部私にまかせてくださいです。私はずっと直希さんのこと、大好きだったですから」 あおいが体を密着させる。甘い香りが鼻孔をくすぐり、やわらかく温かい感触が直希を包み込む。「あお……」「直希さん……好きです……」 あおいが目をつむり、唇を重ねた。 * * *「うわあああっ!」 声と同時に起き上がり、慌てて辺りを見回す。「……」 窓の外はまだ暗かった。「ゆ、夢か……よかった……いや、まいった……」 額の汗を拭い、大きく深呼吸する。「なんて夢を見てるんだ、俺は……」 そうつぶやき、直希が頭を掻きむしった。 * * *「おはようございます」「おはようございます!」 食堂に集合した直希、あおい、つぐみ、そして菜乃花。 あおい荘の朝。朝食前に行うミーティング。 この日の予定を伝え、各スタッフの仕事の割り振りを確認。朝のバイタル、入居者の状態を皆で共有する。「と言う訳で、今日は東海林先生の往診が13時から
9月に入って、一週間が過ぎた。 山下は東海林医院の紹介で、街の総合病院で検査を受けていた。 結果は異状なし。一過性のものだろうとのことだった。 この結果に、ひとまず胸を撫でおろした直希だったが、その後症状を抑える為にどうするべきか、スタッフ会議で何度も話し合った。 その結果、山下が一番興味を持つ映画で試してみようとの結論になった。「山下さんって、かなりの数の映画を観てますよね」 そう直希が尋ねると、山下は「ちょっと待ってね」そう言って、箪笥から大学ノートを何冊も取り出した。 ノートを開くと、これまでに観た映画に関するデータが納められていた。 公開された年、主要スタッフ、主要キャスト。そして解説と感想がびっしりと書かれていた。「山下さん、これって」「うふふふふっ。私の一番の趣味だから。映画館に行ったのは勿論だけど、ビデオ屋さんで借りたのも、調べて書いてるのよ」「まいったな、これは……」 直希が提案しようとしていたことを、山下は既にやっていた。別のことを考えないといけないな、そう思った直希の頭に、ふとひとつの案が浮かんだ。「山下さん、パソコンは使えますか?」「パソコン……調べ物とかにはよく使ってたわ。でも専門的なことは勿論無理よ」「と言うことは、キーボードを打つことは」「それなら問題ないわよ。昔、タイプを打つ仕事をしてたから」「それだ! それだよ山下さん!」「それって、どうしたの直希ちゃん、そんなに興奮して」「山下さんはこんなにたくさんの映画を観て、その一作一作をこうしてまとめて残してる。山下さん、これをネットで公開しよう」「ネットでって……ブログとかかしら」「ブログ、分かるんですね。ますます話が早い。そうです山下さん、ブログを立ち上げましょう」「でも……私、難しい操作は分からないわよ」